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第七章 窯変

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-18 10:57:30

 あわい屋の工房は、今や巨大な窯(かま)の内部と化していた。

 四方の壁が燃え落ち、天井の梁が焼け落ちてくる。

 温度は百度、二百度と上がっていく。

 だが、お龍はもう熱さを感じていなかった。

 皮膚の痛覚受容体はとうに焼き切れてしまったのか、あるいは脳が痛みを快楽信号に変換してしまったのか。

 彼女は、全裸で、全身に漆を塗った姿で、燃え盛る部屋の中央に座していた。

 膝の上には、盲目の猫・文がいる。

 不思議なことに、文も逃げようとしなかった。ただ静かに、お龍の鼓動を聞いている。

 視界が歪む。

 炎の色が変わった。

 赤から橙へ。橙から白へ。そして、青へ。

 それは陶磁器を焼くときに見られる「窯変(ようへん)」の輝きに似ていた。

 極限の高熱の中で、物質が化学変化を起こし、予期せぬ色と質感を獲得する現象。

 お龍の意識の中で、過去と現在が融解した。

 ――初めて鑿を握った日の記憶。

 ――清次と初めて会った雨の日の匂い。

 ――夕霧の肌の柔らかさと、その内側の温かい粘膜の感触。

 ――喀血した時の、あの鮮烈な赤。

 それら全てが、炎の中で混ざり合い、一つの塊になっていく。

(ああ、そうか)

 お龍は悟った。

 私は、張形を作っていたんじゃない。

 私は、「人間の寂しさ」の型を取っていたんだ。

 人は一人では生きられない。体と体が触れ合わなければ、自分の輪郭さえ確かめられない。

 だから人は、他者を求める。埋まらない穴を埋めようとする。

 私の仕事は、その穴にぴたりとハマる「永遠」を作ることだった。

「……できた」

 お龍は呟いた。

 何ができたのか。

 彼女自身が、完成したのだ。

 肉体という檻(おり)が焼け落ち、魂という液体が蒸発して、世界そのものと交わる瞬間。

 天井の太い梁が、音を立てて崩れ落ちてきた。

 それはスローモーションのようにゆっくりと見えた。

 燃える木材が、お龍の頭上に迫る。

 恐怖はなかった。

 むしろ、巨大な男根に貫かれる前のような、慄(おのの)きと期待があった。

「おいで」

 お龍は両手を広げ、炎を迎え入れた。

 文が、短く「ニャア」と鳴いた。

 その瞬間、世界は純白の光に包まれた。

 熱はもはや熱ではなく、圧倒的な「肯定」となって、お龍の全身を包み込んだ。

 彼女の意識は弾け飛び、火の粉となって夜空へ舞い上がった。

 それは根津の空を焦がす煙となり、風に乗り、隅田川を越え、清次と夕霧の元へと届くだろう。

 あわい屋は燃え尽きた。

 そこには、一人の女と一匹の猫が、炎の中で抱き合いながら、炭化していく姿があった。

 それは死骸ではない。

 炭となった二つの体は、高温の中で融合し、まるで一つの前衛的な彫刻のように、黒く、美しく、永遠に固定されたのだった。

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